校長の恋愛・人生相談室

No.1404

家庭、友達、恋愛、仕事、どれもうまくいかず生きる価値がないと感じる

校長先生こんばんは。

わたしには生きている価値がない、死にたいなあ、と最近切実に思ってしまいます。

生まれてから誰にも愛されたことがありません。母親は、明るく活発で、友達に囲まれる子供を望んでいました。わたしは、そういう子供になれず、なぜふつうにできないんだと言われて育ちました。見た目もガリガリで、食べないと気味が悪いままだといつも怒られて過ごしました。父親は中学生の頃家から出ていきました。わたしにはほとんど興味がない人でした。高校生ぐらいまでは、それでも比較的自由に過ごしました。大学生になると、今度は母親の側から離れることは、学校以外ではいい顔をされなくなりました。どこへ行くんだ、誰と行くんだと詮索が始まりました。お金を稼ぐ力のない母親で、わたしの学費がかなりかかってしまったせいで、貯金が減った、生活費がない、と嘆くようになりました。奨学金もかりたのですが、それでも全然足りないと言われました。社会人になってからは少ない収入の半分以上を、母親の老後の資金として必死に貯めました。そのなかでやりくりして服などを買うと、年々嫌みが激しくなりました。母親と離れるには、母親の分の生活費も稼ぎつつ、一人暮らしをできるぐらいの収入が必要だ、と必死になりました。稼ぐためならと、全く興味のないにも転職しました。しかし、コミュニケーション力が低いわたしでは、二人分には到底届きませんでした。

父親との離婚には母親は応じていなかったのですが、別居後15年ぐらいでようやく離婚しました。その頃に、母親からの束縛はさらに激しくなりました。もう耐えきれず、母親のために貯めていた貯金を持って、家を出ました。

母親から離れれば、幸せになれると思っていました。でもそれは勘違いでした。誰かと仲良くなると否定されたり、軽く扱われてしまいがちです。気軽にドタキャンされたり、みんなの前で見下される発言をされたり、マウンティングされたり、です。心がしんどくなり、ドタキャンはやめてほしいと要望を伝えたり、嫌な人から距離を置いたら、ほとんど友人がいなくなりました。恋愛も、そうです。好きな人からは軽く扱われます。どうしても好きになれない人から好かれてしまった時に距離をとろうとすると、その人から怒られます。またそういった恋愛相談をすると、考え方が悪い、視点を変えたら好きになれたかもしれない。いい男に好かれないのは魅力がないからだと説教されます。人から否定され続けて、もう疲れてしまいました。一年前に転職をしたら、職場でも全く役に立たない人になってしまいました。30歳を超えたのに、そうとは思えない仕事ぶりで、消えたくなります。今の仕事に対して特に思い入れもないですし、向いていないので、情けないですが逃げたいです。でも、この仕事すらできないわたしはどこにいっても役に立たないだろうと、転職活動もままならない状態です。

家族にも、友達にも、異性にも必要とされない、一緒に過ごしたいと思われないわたしは、なんのために生きているんでしょうか。恋愛に限らず新しい出会いもありません。なにをする気力もなく、かろうじで漫画で現実逃避して、毎日生きながらえているかんじです。漫画っていうのがまたなんとも生産性がなく、ネクラな感じで落ち込みます。

春になったら少しは気分が明るくなるかな、とぼんやりやりすごしたいと思います。すごく長くなってしまいました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

校長

生き様は誰も否定できない何の相談も受けていないが・・・。そりゃそうなるわ。家庭のことだけでも気が滅入るところだが、母親から離れたらそれはそれで痛みを伴うし(ましにはなったろうが)、その後も人間関係や仕事や恋愛でうまくいかないとなれば、絶望的な気持ちになるよな。

「家族にも、友達にも、異性にも必要とされない、一緒に過ごしたいと思われないわたしは、なんのために生きているんでしょうか。」

まぁ校長自身も何のために生きてるのか自分でよく分かっていないけども。校長もいっぱい「何のために生きるのか」と考えたけどな。君の辛い気持ちを横に置いて哲学っぽくなるが、そもそも「生きる目的」というもの自体が、「生きる価値」と同じぐらい、この世の存在にとってナンセンスなものなんじゃないかなとも思う。

例えば海岸にあさりがあるけど、価値があるからそこにいるというわけでもないし、何かを達成するために、例えば世界の一員として何かを担うためにいるわけでもないよな。役に立つとか立たないとか、あさりにとっては知ったこっちゃないし。ただそういう存在というだけであって。もちろん良いあさりもいないし、悪いあさりもいない。

例えば勝手に種の繁栄というベクトルを置いたら、つまり、勝手に種の繁栄こそが良いものだ(それがあさりの存在意義であり目的だ)という価値観を設定したら、役に立つあさりと、役に立たないあさりというのが出てくるかもしれないけど、あさりにしてみれば勝手に決めるなという話だわな。勝手にこの世に産み落とされてなんとか生きてるのに、役に立つとか立たないとか、知らんわ、なんでここにいるのかも分からんのに、と。

生きていれば人間社会のベクトルがあって、良いとか悪いとか言われるし、個々の中にも嬉しい悲しいという上下がある。人はそうそう悟れないし開き直れないし、そういう枠組みの中で生きているから、そんなの気にするなとか影響されるなと言っても無理だけど、なんというか、死にたいというぐらいまで落ち込んでしまったら、そもそものところを掘り返してみてほしいんだよな。幸せになりたいし成功したいしみんなから愛されたいけど、そういう欲や価値観は埋め込まれていてどうにもこうにも外せないけど、そのために生きるとか価値があるとかないとかは押し付けられたくないし毒されたくない、とにかくなぜか生まれて波に飲まれながらここにいるだけだ、と。

本当に何も考えずに幸せで、説明不要で、自然と湧き上がる気持ちだけで自分の存在を肯定できていたらそれが一番ラクなんだけど、自分の存在意義とか価値まで考え始めて落ち込んでしまったら、一旦、思い出してほしいんだよな。世の中にとって価値があるとかないとか意義があるとかないとか、そんなもののために生きてない、そもそも何かのために生きてない、ただ思い悩みながらここにいるだけだ、と。

校長もすんごく弱ったときはそんな風に思っていたんだよな。成功とか価値とかは捨てられないけど、それはもうゲームの一つのスコアみたいなもので、そのスコアが人生の良し悪しだと思うのはやめよう、と。なぜかそのスコアを目指したくなるような世界に勝手に産み落とされているだけなんだから、その設定に乗っかるのはいいけど、そのスコアによって自分(生きていること)を否定するのはやめよう、意味とか価値とかに関係なくとにかく生きよう、みたいな。そうやって「だからとにかくあがいてやる」みたいに思っていたなぁと。

生きてほしいな。悲しいこと、苦しいこと、いっぱいあるのは分かるし、それも限界を超えればやっていけないけど。本当に本当に地獄を見ている人に「生きてほしい」というのはためらうけど、その悲しい心を感じるその人、いないより、いてほしいなと思う。それに、今いろいろ思うようにいってないかもしれないが、悪戦苦闘したり悩んできたその生き様は、誇れるものだし誰にも否定できないものだと思うけどな。

ちょっとぼんやりしすぎかなぁ。
少しでも何か響くと良いが。

(感想があればこちらへ advice@rennai.ac